9.11 〜あれから5年
2001年9月10日の夜、仕事で渡米中だった僕は、ロス→アリゾナ→オハイオと訪問した後、ニューヨークへと移動中、マンハッタン摩天楼上空を旋回中でした。
ラガーディア空港が混雑しているとのことで、WTC上空を2度旋回しました。
その素晴らしい夜景を見ながら「ああ、こんな凄い夜景を2回も見れるなんて2度とないだろうなぁ..」
そう思って、マンハッタンの街を眺めていました。
9/11-12の2日間マンハッタンで仕事をして、13日には帰国予定でした。
そして翌朝.....
衝撃が走りました。
1機目がつっこんだまさにその時、僕は現場から5キロほど北に離れた、クライアントのオフィスを訪ねていました。
約束の9時になってもなかなか担当者が現れず、しばらくして引きつった顔で、何が起こったかを彼から聞きました。
当初1時間を予定していた打ち合わせは20分程で終わり、急いでホテルへ戻ってTVを見て、初めて何が起こっているのかを目の当たりにし、ショックを受け、家族や会社に無事の電話とメールをした後、翌日訪問予定だった、WTCのすぐ近くの会社の人にメールと電話で連絡を取りましたが、どちらもつながらず......。
しばらくTVニュースに見入っていました。
ホテルから歩いて5分程の5番街から、いつもなら南にそびえ立っているWTCが消えていました。
トンネル、橋、空港、あらゆる交通網が閉鎖され、結局マンハッタンに4日間とじ込められる事になりました。
勿論、仕事のアポは全てキャンセル。
帰国後すぐに予定されていたBREEZEのライブにも出演することができなくなり、メンバーに電話をかけて想いを話し、それを録音してもらって、ライブ当日にメッセージとして流してもらいました。
その間、毎日教会に行き(クリスチャンではありませんが)、またユニオンスクェアの追悼集会にも毎日の様に行きました。
数え切れない程の張り紙やキャンドル...。
現場への救出ボランティアも考えましたが、受付されていないとの事で断念。
自分の無力さがたまらなく辛かった。
何かできないかと、現場近くまで行ってみましたが、1キロ程手前で通行禁止になって、その向こうには生々しい煙があがっていました。
せめて何か出来る事を、と思い、ユニオンスクェアに何百本と立てられたキャンドルの「火守り」をお手伝いしました。
消えたキャンドルに火をつけたり、燃え尽きたキャンドルを取り除いたりする作業です。
他にアメリカ人の若い女性と、アジア系の男性も朝早くから夜遅くまで、火守りをしていました。(後々、9/11に関する写真集を書店でめくっていると、彼女が大きく写っていた本があり、びっくりしました。)
小さな公園ですが、数え切れないぐらいの群衆が集まり、あちこちで演説をしたり、お祈りをしたり、歌を歌ったり...。
アメリカン航空の人達も慰霊に来ました。
一番辛かったのは、ぼくのすぐ横に、若者3人がやって来た時です。
女性の写真を持っていました。
しばらく3人はその写真をじっと見つめていましたが、しばらくしてキャンドルを灯してその写真をそこに置いてから、3人抱き合って泣き出しました。
こういう思いの人が何千人もいるのかと思うと、涙が止まりませんでした。
街では、パトカーや救急車がけたたましく行き交い、また無事を確認できて抱き合う人や泣き崩れる人、ただの野次馬、ニコニコ顔で教会の前で記念撮影をしている日本人らしき観光客.....、いろんな人たちで溢れていました。
4日後、ようやく飛行機が取れ、帰国の途につきましたが、空港へ向かうタクシーや飛行機の窓からマンハッタンをみると、マンハッタン島が真っ黒な煙に包まれ、ゾッとしました。
あの日あの時、日本ではどのように報道されていたのでしょうか?
いずれにせよ、僕にとって9.11は「事件」ではなく、「体験」でした。
一生忘れる事はないでしょう。
5年経った今も、あの日のショックから立ち直れない人たちがたくさんいます。
そして、未だに世界のあちこちで、いろんな紛争や戦争が絶えません。
どうすればいいのでしょう?
自分たちは何をすればいいのでしょう?
何ができるのでしょう?
あの出来事の後も仕事でマンハッタンを何度も訪れましたが、毎回現場に行き、黙祷を捧げていました。
もう1年半近く行っていませんが、5年という節目を迎えるにあたって、改めて、平和の大切さ、命の大切さ、戦争の愚かさを痛感しています。
日本時間でいうと11日深夜でしょうか....。
辛いけど、あの日の事、あの日の思いをもう1度思い出したい。
何も答えは出てきませんが、少なくともあの体験を無駄にはしたくはない、何かしたい、何かを人に伝える事はできないものかと思います。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (4)


最近のコメント